公開日 2014年12月01日

広報かみいた 平成26年12月1日発行 第198号内記事において、保健師からのお知らせで紹介しました、板野郡医師会主催による平成26年度在宅医療連携拠点事業~終末期ケア講演会~の講演録全文を掲載します。 

 

在宅で看取るということ

名古屋大学医学部付属病院老年科医 病院助教授 平川 仁尚先生

 我が国は、人口の高齢化に伴い、多死社会を迎えております。昔は当たり前であった在宅の看取りは、病院での看取りに置き換わってきております。多くの人が住み慣れた我が家で最期を迎えたいと思っているのにも関わらず、です。この理由として考えられるのは、多くの国民にとって、医療面ではやはり病院が安心できる場所であることだと思います。しかし、もしもの時の受け入れ先である病院には、医師不足や医療費の削減等により、長期の入院や救急搬送の受け入れが出来なくなってきている現状があります。他方、老老介護、認認介護(認知症の人が認知症の人を介護する)、独居の問題など在宅における介護環境にも問題があります。このように先行きが見えない看取りの現状において、自分らしく最期を迎えるためには何をすべきかを考えていただきたいと思います。

 

 まず、人が死ぬときには苦しみが伴いますが、その苦しみの種類には、身体的、心理的、社会的(生活環境、人間関係)、そしてスピリチュアルなものがあります。身体的な苦しみとは、体の痛みや症状を指します。心理的な苦しみとは、うつや不安など心の問題を指します。スピリチュアルを一言で説明することは難しいのですが、この部分に「自分らしさ」が含まれます。

 

 さて、病院と在宅では、受けられる治療やケアが異なりますが、どちらが最期を迎える場所として適切なのでしょうか。もちろん、その答えは人それぞれですが、その答えを考えることも自分らしい最期を迎えるために必要な過程です。一般的に、病院では高度先進医療を受けられ、医師や看護師が常駐しており、とても安心です。しかし、在宅でも、医師や看護師の訪問を始め、酸素療法や人工栄養療法など看取りに必要な医療はかなり受けられます。さらには、自宅では、自分らしい生活環境を整えることができます。例えば、好きな時に食べたいものを食べたいだけ食べられる、お気に入りのシャンプーなども使えます。時には、主治医の先生でさえも自由に選べ、気に入った先生に診てもらえます。病状さえ許せば、在宅は最期の時を過ごすには思ったよりもいい場所かもしれません。

 

 また、延命治療や救命治療についても知識を深めておくとよいでしょう。延命治療には、人工栄養療法と呼ばれるチューブを介して鼻や胃から栄養剤を流す治療や人工呼吸器などがあります。こうした治療が重なるとスパゲッティ症候群と呼ばれる、身の回りがチューブだらけになりとても不快な状況になります。もちろん、回復の可能性がある場合にはこのような治療を行うことは自然なことかもしれませんが、不治の病など病状の回復が期待できない状況の場合には、苦痛を受けるだけに終わってしまうこともあります。

 

 最後に、伊賀市の僧侶からご提供いただいた詩をご紹介したいと思います。ある老人病院で、一人の認知症患者の死後、後片付けをしていた看護師が、その患者のロッカーの中から紙切れに書かれたこの詩を発見したというものです。患者は、ごく平凡な、目立たない存在だっただけに、自分の気持ちを書いたこの詩は、大変強い衝撃を看護師に与えました。

 

何がわかっているのです看護婦さん、あなたは何がわかっているの?
私を見つめているとき、あなたは何を考えているの?
さほど賢くもない年老いた気難しい女。
ぼんやりした目付きをして行動も緩慢で、
食べ物をぽろぼろこぼし、返事もしない。
「努力して、やってみて欲しいの!」と大きな声であなたが言っても、
そんな事を少しも気に掛けていない様子で、靴下や靴はいつも無くしたまま。
何も逆らわず、何もしようとするわけでもなく、長い一日を入浴と食事で埋めている。
そんなふうにあなたには思え、そんなふうにあなたは私の事を考えているの?
もしそうなら看護婦さん、目を開いて私を見つめてごらん。
あなたに言われるままに、あなたの意志に従って食事をし、
私がじっと静かにここに座っている間に、私のことを話しましょう。
私が10歳の子どもの時、父や母と一緒に暮らし、兄弟姉妹は互いに愛し合い、
16歳の若い少女の時には浮き浮きして、もうすぐ愛する人に巡り会えることを夢見、
やがて20歳になろうとする時花嫁になり、心は躍り、永遠に守ると約束した誓いの言葉。
25歳で子どもが生まれ、子どものためにと安全で幸福な家庭を築き、
30歳の女性になり、子どもの成長も早く、永遠に続く絆で互いに結ばれ、
40歳の時、若い息子たちは成長し、皆、巣立つ日も近く、
でも、夫は私の側に留まり、私が悲しまないよう気を配る。
50歳の時、再び私の膝のうえで幼子が遊び戯れ、
もう一度、私の愛する子どもたちと私は理解し合う。
夫が死に、暗い日々が続き、未来を見つめ、恐怖に身震いする。
若い者たちは、皆、子育てに忙しく、私は昔を、愛し合った日々を思う。
私は年老いた女。自然は残酷だ。
老年が私を愚かに見せる。
私の身体から、優雅さは打ち砕かれ、活気はなくなり、
かつて熱く燃えた心も、今は石のよう。
しかし、この古い身体の中に、若い少女はまだ住み続けている。
そして、今も、再び、心がときめく。
喜びの日々を、また苦しかった日を思い出し、
私の人生を愛し続け、過ぎ去った日々を再びたどる。
永遠に続くものは何も無いという厳しい事実だけを残し、
あまりにも短く、あまりにも早く過ぎ去った年月の事を思う。
さあ看護婦さん、あなたの目を開きなさい。
目を開いて私を見つめて。
もっと側によって、気難しい老女ではなく、
「私」を知って。

 

 私が訪問したフィンランドの高齢者施設では、毎週1回、入居者全員にワインが提供され、週3回施設内にバーがオープンするとのことでした。自分らしく最期の時を過ごすためには、どこで最期を迎えるのがよいか、日頃からこうした問題について話し合っておき、自分らしい最期のイメージができたら、自分の思いを書面に残したり、家族に伝えておくとよいでしょう。何より、元気なうちから最期の時に備えて準備をしておくことが望ましいと思います。

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